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霊界物語コーナー

出口王仁三郎芸術館

大宮司朗先生インタビュー

 

田中守平伝

田中守平著『太霊道及霊子術講授録』上下巻 7,600円

 本書は田中守平著『太霊道及霊子術講授録』のうち、第二輯『霊子術講義及教授』第三輯『反熱療法特別教授』第四輯『別録・比較治療学講義教授及び批評』および付録の『霊子潜動作用特別講授録』を合冊復刻したものである。当初、全巻の復刻を計画したが、大方の読者の関心が霊子術の具体的実践法そのものにあるのに対し、第一輯『太霊道真典講義』は観念的な内容に終始し、具体的な修法にはなんら言及がないので、割愛したことをお断りしておきたい。なお、本書の初版は大正五年七月十五日付で太霊道本院出版局より刊行され、大正十年までに十三版を重ねている。
田中守平(一八八四|一九二八)は大正から昭和初期に日本全国を席巻したカリスマ的霊術家であり、その霊子術こそが、戦前の霊術ブームの起動力となり、その影響は現代の健康法、中国気功術、レイキなどに及んでいる。
明治十七年、岐阜県の寒村、武並村に生をうけた田中守平は、わずか十六歳で郷里の尋常小学校の教員になるが、英才教育を主張したため、周囲とのあつれきもあってまもなく辞職、単身上京し、大蔵省印刷局、内閣統計局集計係の下級雇員として薄給にたえながら、日本大学、東京外国語大学に学ぶ。おりしもロシアの南下政策によって国論が沸騰するや、守平は対露開戦を主張する上奏文を懐に、桜田門で天皇への直訴を試み逮捕される。世論の同情もあり起訴はまぬがれたが、守平は郷里に送り返され、官憲の監視下におかれる。大志を抱く直情径行の青年にとって、蟄居同然の生活は何にもまして苦痛であった。しかし、この行き場のない閉塞状況が守平の霊能を開花させる端緒となった。守平は山中に小庵を結び、勉学と瞑想にあけくれる。生命の持続は呼吸と食物の摂取にある。ならば、生命の本質を理解するには、食を絶つしかないと考えた守平は、明治三十八年二月から六月上旬まで、合算九十日に及ぶ断食を敢行する。この修行中に守平は、遠隔知覚などさまざまな霊異現象を体験する。山を降りた守平は若干二十歳にして卓越した霊的治病能力をもった霊術家として、その名声は四隣に鳴り響き、押し寄せる人の数は増加の一途をたどった。
しかし、守平の生来の攻撃的かつ行動的な気質は、ふたたび政治運動へと向かう。明治三十九年、名古屋で「大日本帝国青年会」を結成、陸軍の児玉源太郎の後援を得て蒙古に探検隊を送る計画を立案するが、児玉の急死により頓挫する。庇護者を失った守平は、上奏事件以来、監視を続けていた治安警察によって明治四十一年、罪名もないまま東京拘置所に収監され、翌年、膨大な上申書の提出によってようやく出獄を許されたものの、またもや故郷に送り返されるはめになる。
再び山林修行に入った守平は、明治四十三年九月、『太霊道真典』を脱稿するが、明治四十四年秋、中国に辛亥革命が勃発するや、革命党の志士と交流のあった守平は、大陸にわたり種々の画策に従事する。
その帰途、朝鮮の京城に四か月滞在、霊術家として治病行為に従事、その名は朝鮮一円にとどろき、さらに南満州・大連を訪れた際は、チチハル、ハルピン、北京、天津、上海、漢口各方面より、守平の霊力に浴そうとする者が訪れ、未明より夜半にわたるまで、門前はさながら潮のごとくであったという。なかでも奉天・皇寺(ホアンスー)のラマ僧たちはこぞってその来臨を懇請し、守平を「神人」と尊称した。皇寺は、旧清朝太宗皇帝の勅を得て建立された由緒あるラマ教寺院で、蒙古の王侯との関係が深く、その噂を聞いた蒙古王は活仏ハカシケケンならびに三十数名の従者を特使として派遣、守平を蒙古へ招請した。ちなみに、このように守平が中国・満州方面で活躍したことが、中国気功の再編にかなりの影響を与えたと推測される。
帰国した守平は、東京に「宇宙霊学寮」を開設し、霊術実践の講座をはじめるが、政界への大志を捨てがたく、大正四年三月の総選挙に際して衆議院に立候補するが、対立候補者の贈賄攻勢のため、惜しくも落選する。
以降、守平は太霊道の宣布に専念することになる。大正五年六月、東京麹町に太霊道本院を開設し、治病霊術の実践と霊術家の養成を本格的な軌道に乗せる。奇跡的霊術や治療術の数々が喧伝されるや、たちまち、医者に匙を投げられた病人や霊術家志望者が道場に殺到した。そのテキストとして作られたのが本書であり、短期間の講習会で霊子術をマスターした人々は地方に散り、各地で治病にあたりつつ太霊道を広めた。
大正九年七月三十一日には、守平の故郷・武並村に「恵那大本院」が落成する。この大本院には、人々が次々と訪れ、村は民宿ブームに沸いた。膨大な郵便物を処理するため郵便局が誘致され、大正十四年には、国鉄の駅までが設置される。だが、まもなく大本院全焼という不慮の事故が起り、昭和三年十二月十四日、守平は突然の発作で倒れ、翌十七日、若干四十六歳の若さで数奇な人生の幕を閉じる。守平なき太霊道は、急速に凋落の一途をたどり、人々から忘れ去られていった。武並村は、わずか十年もたたないうちに、人が訪れることも稀な山間の僻地に戻った。その突然の勃興と悲劇的な結末ゆえに太霊道は、霊術界の伝説としていまなお語りつがれるのである。
守平によれば、「太霊」とは宇宙に遍在する超越的実体の本源であり、この実体を活動的方面より見るとき「霊子」と呼んだ。霊子は、精神・物質を超越した根源的実在であり、物・心の二元は、ともに霊子の力によって生じ、その力は太霊の究極的原理によって現われる。この霊子を発現させる術が霊子術である。この作用の発動には、霊子顕動作用と霊子潜動作用の二種があり、これを中心として、気合術、、反熱療法、食養法などが太霊道の講授会で教伝された。その全貌がすべて収録された本書は、いまなお貴重な資料的価値を有するといえよう。